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2019.07.17更新

 

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ちょっとビックリする題名にひかれ又監督のトークショーがあるというので、久しぶりに映画をみました(渋谷アップリンク)

キリスト教徒でもない少年が、東京から祖母と暮らす為に地方のキリスト教系の小学校へ転校した少年のお話し。

キリスト教徒ではない、主人公は説明もなく当たり前に行われる学校の拝礼に戸惑う。

すると他の人には見えない、小さな小さなイエス様が現れる。

遊んでくれたり、何でも願い事を叶えてくれた、信じていたイエス様は大切な友人におきた大事件では何も助けてくれなかった。

雪の中で遊ぶ主人公と友人、素直な心の2人をとり巻く親や教師、クラスメート、神父様。おばあちゃん。

二人の日常が美しい雪景色と共に淡々と描かれて行きます。日々、朝、礼拝を学校で行い。

昼は神社の境内で遊び、賽銭まで納め神に祈り、自宅では、おばあちゃんと共に仏壇に線香を供える。

日本人ならではの光景をキリスト教等一神教の人々はどの様に理解し世界の映画祭でいくつもの最高賞を与えたのでしょうか。

我々が当たり前に行っている営みは純粋な心の目で見るとチョットおかしな事をしているのではないか?

少年が信じたイエス様は目には見えない「情報」という名の何者かだったのではないでしょうか。

このご時勢ですから、キリスト教(一神教)を批判する映画ではないかと前知識も全くなく観ていましたが、まったく違った映画でした。

何も、誰も批判していない、淡々と我々の日常を大人と子供の視点で映していく映画でした。

キリスト教圏の映画祭で新人監督賞を受賞した事も理解が出来ます。

亡くなったおじいちゃんが障子に穴を開けてるシーンで始まり、

何でこんな所に穴を開けたんだろうとおばあちゃんに問うた主人公が、

最後のシーンで貼り替えたばかりの障子の同じ場所に穴を開けて外をのぞくシーンで話は終わります。

忠犬ハチ公の逸話を映画にしたアメリカ映画「ハチ」の手法と同じです。

輪廻なのか、歴史は繰り返されるのか?何を監督は訴えたかったのか。

この映画のすべてのシーンは観ている者の勝手な解釈にゆだねていたのではないでしょうか。

奥山監督のトークショーで「監督はキリスト教徒なのか」と質問してみましたが、キリスト教徒の家系だそうですが、洗礼は受けていないそうです。

しかし、いつか洗礼を受けるだろうと言っていました。

監督の親友に実際におこった事実を、死んだ友人にささげる為に構想を練った作品だそうです。

あの誰にも見えない小さな小さなイエス様は何の象徴なのでしょうか。

情報?我々の常識?日常の習慣?教育?我々を奴隷にしている何者か?ではないでしょうか。

自分で考えましょう。我々の常識がお互いを傷つけています。自らも不安にさせています。

この映画は「清らかなもの」と「そうでないもの」「善」と「悪」対象的なものを沢山表しています。

美しい冬の雪景色と共に初めに、意味不明のおじいちゃんの障子の穴開け。

足あと一つない真っ白な校庭で遊ぶ2人の子供を宇宙から眺めるようなドローンの映像で映画は終わりました。

ただただ美しい、理解する必要のない純粋な画でまとめていました。ちょっと清らかな心をとりもどした感じです。

お勧めの映画です。若い監督の優しい心に触れたひと時でした。

以前観た、カナダ人 グザビエドラン監督の「わたしはロランス」の映像を思い出し二作品ともそれはそれは美しい映像でした。

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投稿者: せな整骨院・鍼灸院

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